Sensuousに生きよう。

何も考えてないように見える僕の頭の中は、日本酒が溢れ出るくらいにくだらないことで頭が一杯だ。

天衣無縫の心

ふとした時に見返すと、心が温まりどこか恥ずかしくなるものがある。それはみんなが一生に一度は手にするタイムスリップの道具。それを見るだけで、自分が過去に戻ったかのような気持ちになることができる。

 

当時小学校の担任だった先生は、学校生活を振り返り、生徒一人一人に合った言葉を卒業アルバムの最終ページに書き記した。ムードメーカー、クラスリーダー、冷静沈着...。月並みな言葉が多く並ぶ中に一際目立つ言葉がある。それが僕に送られた「天衣無縫の心」だ。

 

当時を振り返ると、僕は確かに純粋無垢な少年だったかもしれない。僕は小学校3年生の夏に海外から転校してきた。海外からの転校生ということでみんなの興味を集め、すぐさま人気者になった。成績も優秀、運動もマラソン大会上位に入るくらいには得意だった。休み時間には外で元気に遊びまわり、授業中にはクラスみんなの笑いを取ろうといつもバカなことをしていた。給食の時間には大食い競争を始めて、負けじと無理して吐いて怒られた。やんちゃな女友達と言い合いをした時に「殴ってみろよ」と言われて、女性を平手打ちしたこともある。自分が気にくわないことがあれば、相手を多少嫌な気持ちにしてでも何とかした。これを聞くと、おやまの大将のような悪ガキを思い浮かべるだろうが、そうではない。オラオラ系の生徒ではなかったし、みんなを引っ張っていくような存在でもなかった。あまりに自由な存在だったのである。

 

そんな自由な心を持った少年は、いつからか人の目を気にするようになった。今思えばそれは、中学に入り「女性」を意識するようになったことがきっかけだろう。思春期の男女の会話は恋愛の話で持ちきりだ。あいつは○○のことが好きらしい、○○と××が付き合っているらしいというような会話があちこちでひっそりと行われている。僕は女性を意識するうちに、気づけばクールな立ち振る舞い、気取った立ち振る舞いがかっこいいと思うようになった。同時に、自由奔放に行動することへの恥じらいを感じるようになった。僕の魅力はこの時崩れ始めた。大草原を自由に走り回っていた少年が、「学校」という柵に囲まれた小さな人間になってしまったのである。

 

人間は、人の目を気にせずには生きることができない生き物である。誰しもが承認欲求を持ち、それに快感を覚える。一度その快感を味わってしまうと、そこから抜け出すことはできない。一部の限られた成功者は「社会貢献」という綺麗な言葉を使うが、それも本質的には人目を気にした行動である。誰かに認められたい、誰かに感謝されたい、誰かに好かれたい。彼らにとっては、承認主体が社会全体であるというだけの話だ。

 

逆も然り、非承認経験のある人間は、その辛さを二度と経験しないよう行動する。一度その不快感を味わってしまうと、それへの不安を取り除くことは難しい。人前で笑われたくない、人前でかっこ悪い姿を見せたくない、人前で間違ったことを言いたくない。これらは、周囲の人からは些細なことであっても、当事者にとっては治すことが難しい過去のトラウマなのである。

 

僕はこれまで様々な承認経験そして非承認経験をしてきた。振り返ってみると、今の僕に最も影響を与えた経験は小学校時代にあるのかもしれない。「天衣無縫の心」と言われたその時代には、僕はいつもキラキラしていて自由だった。その時の経験からか、社会に出た後になっても「どこか人とは違う存在になって、自分らしく自由に生きたい。」そんな考えが頭の中を支配していた。

 

僕は現在、仲間にも恵まれ、普通では考えられないくらい自由で貴重な旅をさせてもらっている。世界を飛び回り好きに仕事して遊んで。大きく社会を変えうる船艦の一員として、僕ら小船が加わる機会もすぐ目の前に転がっている。もしかしたら、小船は沈み僕らの旅は終わるかもしれない。けれど、旅の行方がどうなるにせよ、今の僕はこれまで以上に輝いている。「天衣無縫の心」を持って。