Sensuousに生きよう。

何も考えてないように見える僕の頭の中は、日本酒が溢れ出るくらいにくだらないことで頭が一杯だ。

もう一人の嫌な自分

日本人は何かと他人と比べたがる人種だ。それは小学校から高校にかけて義務教育という、社会が決めた基準に照らして良し悪しの評価を受ける環境に身を置くからである。そこでは規則に従うことが正、勉強して良い大学に行くことが正、そして良い会社に勤めることが正などと教わる。大人になった人が「これは自分なりの価値観である。」と思っているものの多くは、こうした日本社会が決めた価値観に大きな影響を受けているのである。

 

日本社会は世間が思うよりも遥かに不平等な社会だ。義務教育が子どもに刷り込む価値観はいわば社会の奴隷に必要な価値観であり、日本社会はこれに反すれば社会的評価が自ずと悪くなるような仕組みで成り立っている。この仕組みをコントロールしているのは一部の限られた富裕層であり、彼らの既得権益が守られるような仕組みで日本社会は動いていると言っても過言ではない。日本ではイノベーションが起きづらいというのもこの見えない格差が要因と言える。「出る杭は打たれる」という言葉がこれほど似合う社会は他に無いだろう。

 

僕も少し前までは日本社会の奴隷であった。世間では十分に優秀と言われる国立大に入学しても東大京大の人を見て劣等感を感じたし、同じく大企業と言われる企業に就職しても商社マンや外資銀行に勤める人を見てどこか自分を卑下していた。年収も高いに越したことはなかったし、仕事内容も海外を股にかけるかっこいいことがしたいと思っていた。何より、そんな風に人と比べて物事を評価してしまう自分が嫌だった。

 

しかし、いつからだろう。「友人の年収が若くして1,000万を超えた。」などと聞いても何も思わなくなった。大企業を辞めてもうすぐ1年が経とうとしているが、この1年で僕の価値観が大きく変わったのである。このように言うと「出た、ベンチャー的発想。」などとバカにする人が出てくるが、それともまた違う。"ベンチャー企業"に務めた経験はないし、この1年は僕が尊敬する仲間と一緒に自分たちが面白いと思うことをやり続けた、ただそれだけである。既存社会に捉われない環境に身を置いたと言う方が正しいか。

 

僕は自分に"できる"ことが見つかった。自分が"やりたい"ことも見つかった。そして、それらを活かして何か"社会に役に立つ"仕事をしたいと思うようになった。他人に対しても同じだ。自分の好きを仕事にしている人、そして何か社会に対する信念を持って仕事している人に魅力を感じるようになった。逆を言えば、そうではない人の話が退屈になった。

 

僕は日本社会に縛られる人たちを決して下に見ている訳ではない。脱・奴隷的発想が正しいとも思わない。ただ、個人として人間関係に思い悩んでいるだけである。彼らが面白いと思う話を僕がつまらないと思うのであれば、その逆も然りで僕の面白いと思う話は彼らにとってはおそらくつまらないのである。自分と似た考えを持つ人と付き合えば良いと言われるかもしれないが、僕はこれまでの人生で付き合った人ほとんどを否定できるほど心が強くはない。

 

嫌な自分を超えた先にはもう一人の嫌な自分が待っていた。僕はただでさえ人とのコミュニケーションに難ありだが、このもう一人の嫌な自分に打ち勝つ為にも、今後は勇気を持って自分の考えを彼らに伝えていこうと思う。そして、最後に気づく。「彼ら」と対置している時点で僕は未だに日本社会から抜け出せていないのかもしれない、と。