Sensuousに生きよう。

何も考えてないように見える僕の頭の中は、日本酒が溢れ出るくらいにくだらないことで頭が一杯だ。

銀行員時代 集合研修編②

お待ちかね、研修内容全般について記憶の限り振り返ってみよう。

 

◯無難に書き記す所感文

1ヶ月間の集合研修を振り返った時に真っ先に思い浮かぶのが「所感文」である。頭取、役員、人事部長、支店長等々お偉いさんの講話の後には決まって全員が所感文を書かされた。誠失礼な話ではあるが、それぞれの講話で彼らがどんな話をしていたのかは全く覚えていない。おそらく銀行員としての心得的な話をしていたと思われるが、今なお銀行員として働く僕の同期でも講話の内容を細かに覚えている人はほとんどいないだろう。それくらいに退屈であった。

 

「所感文」とは本来自分が感じたままに書き記す文章である。これに従えば、みんなが揃って「聞いてて眠くなるほどに退屈でした。」と書くべきところであるが、そこはさすが兵隊さん、「身の引き締まる講話でした。」などと嘘でも前向きな内容を書く。僕も当然それに従った。そもそも講話の内容を覚えていなかったし、何の講話であっても兵隊さんが書くべき内容は変わらなかったからである。「押忍、オレ頑張ります!」と書いておけばひとまず問題にはならないのだ。

 

講話の際に講師から口酸っぱく言われたことがある。「メモをとれ。」だ。これは研修時代に限らず配属後も部店で言われることで、銀行員たるもの目上の人の話を聞くときはノートにペンが必需品なのである。もはやこれらは制服みたいなものであり、持っていないと怒られることすらあった。僕も研修の初めの頃はみんなに倣ってメモを取っていたが、次第に馬鹿らしくなり途中でメモを取ることをやめた。僕はメモを取るどころか、講話を聞きながら所感文を書き進めた。講話中メモを取って、終わって教室で所感文を書く。明らかに二度手間だ。

 

今思えば、当時感じたことを素直に書き記しておけば良かったと少し後悔している。しかし、その時の僕は軍隊のしきたりに抵抗するだけの強さを持ち合わせていなかった。

 

◯中学生レベルの話し合い

1ヶ月の研修期間中、度々イライラすることがあった。それはクラスメイトの失敗を理由に謎の話し合いに巻き込まれることが多かったからである。不運なことに、僕の所属したクラスは他のクラスの中でも問題児クラスとして有名であった。

 

膨大な顧客情報を取り扱う銀行員にとって、「モノをなくすこと」はご法度である。機密文書を外でなくして地方に飛ばされたなんて話はテレビドラマなどでもよく目にするだろう。研修期間中、財布や社章をなくす同期が何人も現れた。その度にクラスで開かれる話し合い。そこでは事態発生の要因、再発防止策が議論され、実際に現場を想定して講師への報告演習が行われた。

 

確かに、研修としてはあるべき姿である。自業自得が招いた個人所有物の紛失であるが、そこで甘やかすのもおかしい。しかし、1度ならず2度3度と同じことを繰り返す同期に僕はうんざりした。「お前らは中学生か。」当事者以外の多くが思っただろう。

 

研修ではこのようなマインドも直される。銀行員にとって、1人のミスは全員のミスなのである。学生時代を体育会で過ごした僕はこの考えに何一つ異論はない。実際誰かがモノをなくした際に、講師を含めた研修所全体が捜索に動く様子を見て感心したくらいである。

 

しかし、配属後にみんなが気づく。研修で教わるこの考えは机上の空論である、と。実際は誰も守ってくれないのだ。

 

◯それなりに楽しいクラス行事

何もうんざりした思い出ばかりではない。"それなりに"楽しかった思い出もある。

 

銀行員として習得すべきスキルに電卓計算と札束計算がある。研修ではこれらクラス対抗のコンテストが開かれた。クラス全体のスキル向上の為クラス内では寮対抗で毎日の練習が行われ、僕は同じ寮であったクラスメイト4人と他の奴らには絶対負けまいと真剣に練習に取り組んだ。その成果もあって、僕ら寮のメンバーは常に成績優秀であった。

 

これ以上に何か特筆することもないが、クラス行事の練習期間中同じ寮の仲間4人と過ごす時間が何より楽しかった。5人はバックグラウンドは様々ながらどこか通じる部分があり、気づけばクラス内で独立遊軍のような存在になっていた。

 

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以上、集合研修について振り返ってきたが、僕にとっての研修の意義を挙げるとすれば、それは間違いなく「仲間との出会い」になるだろう。研修以降配属がばらばらになり関係が薄れることもしばしばだが、僕らは違った。配属後ばらばらになった僕らは、近い将来また別の形で集結することになるのである。

 

僕ら独立遊軍は今後このブログでも度々登場する為、本稿より名を「武蔵」とする。武蔵の戦いは今なお続いている。

 

 

銀行員時代 集合研修編①

退職してからいつかは振り返ろうと思っていた僕の銀行員時代。まずは入行してすぐの集合研修について。確か研修内容とかあんま具体的に書くとNGだったからちょっとぼかさないとな。って言ってもほとんど覚えてないんだけど。

 

〜入行前〜

 

大学4年の冬、部活を引退してようやくストレスフリーな生活を送れると思っていたが、僕はどういう訳か引退した後もストレスある生活を送っていた。入行前の宿題として英語学習が課されていたからである。決められたカリキュラムに従ってネットで学習を行い、定期的にTOEICを受けてその成果を測る。これだけなら全くストレスではない。むしろ、当時海外勤務を目指していた身としてはやって当然である。僕が嫌だったのは、生徒(入行予定者)同士が進捗確認する場として設けられていた定例のグループミーティングだ。競争意識を与える為のものだろうが、苦痛でしかなかった。画面越しに参加者全員がだるいと思っているのがわかるし、ミーティングで話す内容もくだらない。

 

そもそも進捗確認することに何の意味があるのだろうか。残された大学生活が短い大事な時期に、自分より前向きに宿題に取り組む人を見て「くそっ」とは思わず、失礼な話かもしれないが「暇なんだな」と思った。後ろ向きな人を見て「ダメだな」とは思わず、「やるべきことが他にたくさんあるんだな」と逆に感心した。

 

企業が学生に対して入社前に宿題を課すことは反対しないが、過度な管理はするべきではない。最低ラインを設定した上で、その時々の個々の優先順位に委ねるべきである。銀行の堅い管理態勢を感じた事前課題であった。

 

〜入寮日〜

 

桜が開花し春の暖かさが感じられる頃、僕は泊まり込み研修に参加する為の大きな荷物を持ってとある駅に降り立った。スーツ姿の自分と似た格好の人を頼りに研修所行きのバス停まで歩く。バス停に並んだ人たちからは妙な緊張感が感じられ、自分もまた少し緊張していた。

 

研修所に着くとまず服装チェックが行われた。髪型、スーツ、靴、ネクタイ諸々を講師の人たちが一人一人丁寧に確認していく。列で待つ入行者の数は多かったが、事前資料で服装を指定されていた為、比較的スムーズに確認作業は進んだ。そして、いよいよ自分の番が来た。「よろしくお願いします。」

 

自分でも「まさか」と思ったが、上に挙げた髪型、スーツ、靴、ネクタイ全てOUTだった。他にも何人かOUTの出る人はいたが、全てダメだった人は僕以外にいなかった。まさに、アウトデラックス状態である。寮に移動した後、近くの美容院とスーツ屋さんに行き合計5万以上使ったことを覚えている。

 

指定があったにも関わらずなぜ僕は全てOUTだったのか。集団に同質化されるのがどうしても嫌だった僕は、指定されたもの全てにおいてギリギリを攻めた。OUTとなった以上もはやギリギリとは言えないのだが。結果、多くの人に迷惑をかけ自分でも痛い目見ることになったが、今でも一切の後悔はない。

 

〜入行日〜

 

4/1、この日は世間一般にほとんどの企業で入社式が行われる、新社会人門出の日だ。当行もまた本社で入行式が行われた。

 

本番前に司会者の人から進行説明があり、起立、着席、礼の練習を数百人もの人が一緒になって行う。本番では、壇上に立った"神々しい"頭取の話をみんなが一生懸命になって聞く。みんなと同じ時に同じ行動をする自分を見て気づく。そう、僕たちは兵隊さんだ。○○銀行という軍隊に入隊するのだ。中には「よっしゃいくぞー!」と特攻隊長のようにアツい気持ちを持った新入隊員もいるだろう。しかし、僕は違った。「この中で僕が死んでも誰も僕のことを覚えていないに違いない。」そう考えただけで、急に心が悲しくなった。

 

入行式が終わりバスで研修所まで移動した。互いを知らないせいか、バスの移動中はやけに静かだった。到着して休憩をとった後、入行そして研修にあたっての説明が行われた。色々な書類を書いたりしているうちにあっという間に時間が過ぎ、1日が終わっていた。

 

手続き作業を通じて問題認識したことは、契約書等の重要な書類もある中で説明がどこか作業的に行われていたことだ。多くの新入社員の手続きを限られた時間で進めようと思ったら、細かい説明を省かざるを得ないのかもしれない。書く側もほとんどの人が会社と契約を結ぶことを軽視しており、これを疑問に思わない。僕からすれば彼らは異常であるが、これが日本社会によって学生に植え付けられた思想であり、彼らを否定することはできない。この日以降様々な研修カリキュラムが組まれていたが、企業の歴史なんかを学ばせる前に、企業と個人との関係性について議論させた方がよほど社員の為になる。

 

業後には入行前の英語学習の最終確認テストとしてTOEIC受験が待っていた。みんなヘトヘトの状態での受験である。頭がぼーっとする中でリスニングテストを受ける辛さは容易に想像できるだろう。「なんで今日なんだよ。」という声があちこちで聞こえた。

 

TOEICを終え寮への帰り道。冗談交じりではあったが、たまらず同僚に一言。

 

「銀行、辞めたい。」

 

自然と意気投合した。そして、この時僕は想像していなかった。

彼が僕の人生を大きく変えることになることを。

 

 

 

天衣無縫の心

ふとした時に見返すと、心が温まりどこか恥ずかしくなるものがある。それはみんなが一生に一度は手にするタイムスリップの道具。それを見るだけで、自分が過去に戻ったかのような気持ちになることができる。

 

当時小学校の担任だった先生は、学校生活を振り返り、生徒一人一人に合った言葉を卒業アルバムの最終ページに書き記した。ムードメーカー、クラスリーダー、冷静沈着...。月並みな言葉が多く並ぶ中に一際目立つ言葉がある。それが僕に送られた「天衣無縫の心」だ。

 

当時を振り返ると、僕は確かに純粋無垢な少年だったかもしれない。僕は小学校3年生の夏に海外から転校してきた。海外からの転校生ということでみんなの興味を集め、すぐさま人気者になった。成績も優秀、運動もマラソン大会上位に入るくらいには得意だった。休み時間には外で元気に遊びまわり、授業中にはクラスみんなの笑いを取ろうといつもバカなことをしていた。給食の時間には大食い競争を始めて、負けじと無理して吐いて怒られた。やんちゃな女友達と言い合いをした時に「殴ってみろよ」と言われて、女性を平手打ちしたこともある。自分が気にくわないことがあれば、相手を多少嫌な気持ちにしてでも何とかした。これを聞くと、おやまの大将のような悪ガキを思い浮かべるだろうが、そうではない。オラオラ系の生徒ではなかったし、みんなを引っ張っていくような存在でもなかった。あまりに自由な存在だったのである。

 

そんな自由な心を持った少年は、いつからか人の目を気にするようになった。今思えばそれは、中学に入り「女性」を意識するようになったことがきっかけだろう。思春期の男女の会話は恋愛の話で持ちきりだ。あいつは○○のことが好きらしい、○○と××が付き合っているらしいというような会話があちこちでひっそりと行われている。僕は女性を意識するうちに、気づけばクールな立ち振る舞い、気取った立ち振る舞いがかっこいいと思うようになった。同時に、自由奔放に行動することへの恥じらいを感じるようになった。僕の魅力はこの時崩れ始めた。大草原を自由に走り回っていた少年が、「学校」という柵に囲まれた小さな人間になってしまったのである。

 

人間は、人の目を気にせずには生きることができない生き物である。誰しもが承認欲求を持ち、それに快感を覚える。一度その快感を味わってしまうと、そこから抜け出すことはできない。一部の限られた成功者は「社会貢献」という綺麗な言葉を使うが、それも本質的には人目を気にした行動である。誰かに認められたい、誰かに感謝されたい、誰かに好かれたい。彼らにとっては、承認主体が社会全体であるというだけの話だ。

 

逆も然り、非承認経験のある人間は、その辛さを二度と経験しないよう行動する。一度その不快感を味わってしまうと、それへの不安を取り除くことは難しい。人前で笑われたくない、人前でかっこ悪い姿を見せたくない、人前で間違ったことを言いたくない。これらは、周囲の人からは些細なことであっても、当事者にとっては治すことが難しい過去のトラウマなのである。

 

僕はこれまで様々な承認経験そして非承認経験をしてきた。振り返ってみると、今の僕に最も影響を与えた経験は小学校時代にあるのかもしれない。「天衣無縫の心」と言われたその時代には、僕はいつもキラキラしていて自由だった。その時の経験からか、社会に出た後になっても「どこか人とは違う存在になって、自分らしく自由に生きたい。」そんな考えが頭の中を支配していた。

 

僕は現在、仲間にも恵まれ、普通では考えられないくらい自由で貴重な旅をさせてもらっている。世界を飛び回り好きに仕事して遊んで。大きく社会を変えうる船艦の一員として、僕ら小船が加わる機会もすぐ目の前に転がっている。もしかしたら、小船は沈み僕らの旅は終わるかもしれない。けれど、旅の行方がどうなるにせよ、今の僕はこれまで以上に輝いている。「天衣無縫の心」を持って。

 

What's this blog

「いつからだろう。声の形でコミュニケーションを取ることが下手くそになったのは。」

 

ある日の夕方、市街地のカフェテラスで観光客に紛れてビールを飲みながらふと考えた。海外に来て早半年が経とうとしているが、現地の生活に馴染めず、どうやら少し頭がおかしくなっている。そんな不安定な状態にある僕だが、この自問に対して清々と自答してみようと思う。以下に述べるその答えがブログを始めるきっかけになったからだ。

 

勘違いして欲しくないが、僕は引きこもりではない。むしろ学生時代には団体スポーツに打ち込んで来たガチガチの体育会系である。右向けと言われれば右を向くし、酒飲めと言われればつぶれるまでに酒を飲む。文句を垂れずに人の指示に従うという意味では、普段から意思表示をしておらず、人とコミュニケーションを取っていないのかもしれない。しかし、ここで言う「コミュニケーション」とは人との会話の話ではない。自己表現の話である。自分の考えをいかに上手く相手に伝えられるかという話である。

 

過去を振り返ると、僕はこれまで人前に立って何かを話す機会が決して多かった訳ではない。学生時代には学級委員、イベント運営委員なんてこともしたことがない。強いて挙げるとすれば、大学時代に部活の副将として練習や試合前に少し偉そうに後輩に話をしていた程度である。すると、今僕が抱えている声のコミュニケーションへの苦手意識は経験不足によるものなのだろうか。いや、違う。昔から僕にはどこかおかしいところがあった。

 

僕は何かその時の気分で決めた言葉を普段の会話でやたらと使うクセがある。過去最も発せられた言葉TOP3は「不毛」「えぐい」「渋い」だろう。一度これらの言葉が僕に憑依すると、なんの受け答えをするにしても「不毛だな」「えぐっ」「渋すぎ」などといった返答になる。知人でもない人からすれば、「それ、えぐいね」などと言われても全くの意味不明であろう。しかし、それらは僕なりの解釈で正しく使われているのである。そして、これのタチが悪いところは、それが自分の周りの人にすぐさま伝染することである。気づけば知人もこれらの言葉を使い始め、そこには異様な言語コミュニティが形成される。

 

今思えば、中学、高校、大学といつの時代も僕は言葉遊びをしていた。正規の意味とは異なる自分なりの解釈で言葉を使い出したり、時に造語を作り出すこともあった。こんなことを繰り返す内に、僕の私生活はほんの数単語で会話が(自分の中で)完結するようになっていたのである。語彙力不足?そんなことはない。文章という形で自己表現をすれば、僕は多種多様な言葉を用いて物事を語ることができる。声の形で同じことができなくなったのは、その時々の言霊が反射的に口から出てくるからである。

 

僕の言語コミュニティに属さない人は、口を揃えて僕にこう言う。「返事が適当すぎる」「何も考えていないでしょ」と。君らの言う通りだ。僕は口で受け答えをする時には何も考えていない。考えることすら面倒臭い。誤解を生まない為に言い直せば、自分の考えを瞬時に頭で整理しアウトプットすることが苦手なのである。だから、考える必要がないよう独自の言葉でもって返事をしている。僕はこの苦手意識を払拭しなければならない。しかし、それ以上に言葉遊びが好きだ。このブログは僕が文章という形で自由に言葉遊びをしながら自己表現ができる場として使いたい。