Sensuousに生きよう。

何も考えてないように見える僕の頭の中は、日本酒が溢れ出るくらいにくだらないことで頭が一杯だ。

銀行員時代 法人営業部編②

配属後の業務内容について振り返る。配属後すぐに担当を任され営業マンとして現場に出される場合もあるが、支店の時と同様にあおぞら法人営業部は大型店ということもあって、部内で行う下積み業務の期間が長かった。僕が実際に担当を持ち始めたのは配属して1年以上が過ぎてからである。その頃には残りの同期二人は担当を任されることもなく、次の部署へと異動していた。閉じられた空間から外に出るまでの道のりが長く、その道中で何度か心が病みかけた訳だが、ここではその苦悩をお伝えしたい。

※行内の審査プロセス等は機密情報に関わる為、あくまで大枠での説明に留める。

 

稟議添付資料の作成

電話応対やコピー等その他雑務を除いてまず新人が任されるのは、融資審査に使う稟議書の添付資料の作成である。担当者は社内において「なぜこの取引先に融資することができるのか。」ということを論理的に説明しなければならない。その説明書が俗に言う稟議書と呼ばれるものである。その稟議書には説明を補足する為の資料が添付されている。例えば、取引先の資産明細やグループ関係図などがあるが、これらを作るのが結構手間な上につまらない。最初の頃は企業の資産状況や商流を知る意味で重要な作業と思いながら取り組むことができたが、繰り返している内にそれが単純作業に成り下がった。それもそのはず、基本的にはマニュアルに従って決められたフォーマットに値を入力するだけの作業であり、そこから何を想像するかは担当者の力量に委ねられるからだ。僕は上司から「担当者になったつもりで取り組め。」と何度も叱られたが、先輩の補佐として部内作業に止まっている間は最後まで当事者意識を持つことができなかった。それどころか、僕はこの作業を面倒臭いとしか思えなかったのである。ひたすらこの作業を繰り返す一般職の人たちにただただ感心していた。この人たちがいるおかげで営業マンが伸び伸びと営業できていることは間違いないが、どこか非効率さを感じて仕方がなかった。

 

稟議書作成

稟議添付資料の作成をある程度こなすと次に稟議書そのものの作成を任される。これは個人的に最初の頃は面白かった。文章で論理的に何かを説明する。僕の得意分野だ。稟議書も案件ごとにある程度書き方が決まっていて、その決まりを習得するまで多少の時間はかかったが、それを身につけてからは割と退屈せずに稟議書作成に取り組むことができた。一つ大きな壁になったのが、稟議書を回覧した際の先輩・上司とのやり取りである。担当補佐として作業していた頃は僕→担当者→上司→部長席という順で稟議書を回覧したが、内容に関して当然僕も上司に詰められた。上司からの質問に僕が答えられないと上司の怒りが担当者に降りかかる。期限まで時間がない時には怒られるのを覚悟で「とりあえず俺の印鑑押して回覧しといて。」と確認無しに稟議書を回覧する担当者も一部いて、ちょっとした寸劇が部内ではしばしば繰り広げられた。確かに、稟議書を回覧しても上司からの指摘がデフォルトならば、急ぎの時にとりあえずで回覧することは理にかなっている。しかし、その度に担当者と二人で上司から叱りを受けるのは耐え難かった。僕が当事者意識を持って先輩の担当先を入念に調べ、なんでも一人で上司の質問に回答できれば良かったのだが、そこまで僕は"できた"新人ではなかった。僕の新人らしさと言えば、先輩にイライラしても何一つ文句を言わず笑って迎合した程度である。まさに一兵卒らしい最悪の対応であった。

 

現物回収

新人であっても外に出られる機会は存在する。それが現物回収である。別件で忙しい担当者の代わりに現金や契約書等を受け取りにお客さんのところに出向く。要はお遣いである。新人に許された唯一の気晴らしであり、外に出た際には缶コーヒーを片手にゆっくりしたものだ。受け取り作業は現代のデジタル化社会とは程遠いもので、手書きで決められた用紙に授受を記録する形式を取る。これにも細かなルールがあり、小さなミスであっても上司の印鑑あるいはお客さんによる訂正が必要となった。作今の事務簡略化の流れを受けてか、僕の在職期間中に何度か形式の変更が行われたが、担当者が新しい形式に慣れるのに時間がかかるような中途半端なものであった。コストの関係もあるだろうが、一早くテクノロジーによって効率化を図るべきである。以上を読んでわかる通り、現物回収とは外に出られることを除いて何の面白みもない作業である。だからこそ先輩たちも面倒だからと新人に任せる。上司は現物の授受からお金の流れ、契約内容等を学べと口酸っぱく言ってきたが、僕はその心がけを持続することができなかった。最初は目新しさから興味も湧いたが、1年以上もそれを繰り返していると思考がどうなるかは想像に易いだろう。

 

 

主には上の三つが僕が担当を任されるまでに一年以上続けて行なった業務内容である。これらを意識的に取り組めなかった僕が悪いと言う人もいるに違いない。それは否定しない。それぞれから銀行業務に関して学ぶこともたくさんあったのは確かだ。しかし、一年以上に渡ってこればかりを任されるというのはあまりに酷ではないだろうか。支店研修の時もそうだ。僕は他の同期に比べて窓口に出るタイミングも遅く、その間窓口後方で作業をするか、ATMに立つか、あるいは綺麗なお姉様方と話をしているだけであった(悪くはない)。これが大型店に配属された新人の宿命であるということも僕は十分に理解していた。おそらくあのまま銀行に残っていれば、次は海外あるいは本部に異動となり、10年目くらいまではそれなりの銀行キャリアを歩んでいただろう。そんなことも頭の片隅に置きつつ僕は我慢を続けてきたが、当然負の感情に支配された心が耐え続けられるわけもなく、僕の脳はついに思考を停止した。以下では、僕がおかしくなり始めてからの話をいくつか紹介しよう。

 

無言と作り笑顔

思考が停止してからは、僕は必要以上に職場の人間と話さなくなった。黙々と稟議関係の"作業"を進める日々を繰り返した。わからないことがあれば先輩や上司に聞くが、それ以上の会話はしなかった。中には「お前、最近元気ないな。」と気にかけてくる先輩もいたが、僕は「そんなことないです!元気です!」などと笑顔を作って見せた。自分で言うのも気が引けるが、支店研修の頃に職場の人に可愛がられお客さんにも一度も怒られたことがないという話を紹介したように、僕は割と人に好かれやすい方である。あおぞら法人営業部でも僕は多くの人に可愛がられていた。一つ下の後輩が入ってきても、先輩や上司から何か頼まれる時は決まって僕に声がかかった。「なんで僕より下がいるのに彼らに頼まないんだ。」と内心では不満に思っていたが、作り笑顔で引き受けた。それらを後輩に丸投げしても良かったが、僕は自分がされて嫌なことは他人にするまいと依頼された雑務の半分を後輩にお願いするに留めた。古い体質の会社で働く人間は僕の行動を甘いと言い切るかもしれないが、そんな彼らに僕は声を大にして言いたい。「雑務は若手に任せれば良い。」などという時代は終わったのだ。日本でも多くのベンチャー企業が成長を見せる中で、この先企業として成長し続ける為には年功序列に従った企業体質を変えていかなければならない。いつまでも戦後・バブル期の幻影に囚われていては日本は国として沈んでしまう。

 

逃避先は酒

社会人になる時に典型的なサラリーマンには絶対になるまいと心に誓ったが、気づけば僕はお手本のようなサラリーマン生活を送っていた。思考が停止してストレスフルになってからは、仕事終わりや週末に決まってお酒に逃げたのだ。職場に関係ない友人とお酒を飲んでいる間は少しばかり救われた気分になった。お酒を飲んで記憶を飛ばすようになったのはその頃からだろうか。次の日仕事であることを忘れて飲み過ぎた時には、起きたら見知らぬ街のビルの階段に座っていて、始業時間に間に合わなかったこともあった。その時は財布も失くしていて上司に怒られるのを覚悟で出社したのだが、不思議なことに軽い注意で済んだことを今でも覚えている。後から先輩に聞いた話だが、ロボットのように無表情で働く僕を上司も心配していて、ストレスで飲み過ぎたことをすぐに悟ったからであった。銀行員に限らず日本のサラリーマンの飲み会の話題は大半を職場の愚痴が占める。各々が仕事にストレスを抱えその発散をしているわけだが、傷の舐め合いとしか言いようがない。職場の人の悪口を言ったり説教をしてくる人については最悪である。非公式の場で人を蔑むか自分を持ち上げることで尊厳を守っているのだろうが、そんなことをしなければ自分を誇示できない大人はあまりにかわいそうである。僕は先輩や上司に誘われた飲み会には極力参加するよう努めたが、その度に彼らのような大人にはなりたくないという想いが強くなった。勘違いしないで欲しいが僕は彼らを否定しているわけではない。あくまで一つの選択肢として、その生き方が僕には合わなかったというだけの話だ。

 

僕はお酒以外にも数々の失敗をした。研修をすっぽかしたり営業車で物損事故を起こしたり。ここまでを読むと僕が鬱になっていたかのように思うだろうが、決してそうではない。会社への強い疑問と自己キャリアへの不安を抱きながらも最低限の正気は保っていたし、理由もなしに仕事を休むということは一度もしなかった。しかし、僕の精神状態は裏路地でチンピラに袋叩きにあったくらいにボロボロになっていた。そんな人っ気のない裏路地の暗がりを歩いていた時のことである。目の前からまばゆいヘッドライトを灯しながら二人を乗せた一台の車が僕に近づいてきた。

 

「久しぶり。俺ら二人東京に住むことになったから今度飯食わない?」

 

眩しくて一瞬誰だかわからなかったが、車に乗っていたのは独立遊軍武蔵の二人であった。異動発表があってようやく担当を任されるとわかった春先の出来事である。仲間と再会して以降、僕の銀行員人生は大きく動き始める。どのようにして僕は生気を取り戻し、伝統的社会の枠組みから抜け出すことができたのか。次回、銀行の営業マンとして働きながら、日本人として身体に染み付いた保守的思考と葛藤する様子を述べていく。

 

 

(続く)